地理と歴史についてシリーズで考えてみる。
その1〜我が国では地理と歴史を軽んじてはいないか?
我々人類は地勢を完全に克服するに至っていない。地勢とは我々の周囲にある自然環境のことで、地形や気象条件、自然の営み全般のことである。これだけ科学が進歩し文明が発達しても人間の生活はある意味自然任せのままである。今回のコロナ禍然り、先の大震災然り、自然のもたらす脅威の前に我々人間はなす術がない。
おそらく有史以来我々のご先祖たちは自然の脅威と闘いながら、ある時は自然に神を感じて敬い、またある時は闘って大きな犠牲を出し、そうやって自然の営みと共生しながら、地勢の仕組みや法則を会得してそれを地理と呼び、次第に経験と智恵を育みそれを後世に伝えることによって生き延びてきたに違いない。そしてその営々とした作業の積み重ねを歴史と呼んで人類の智慧としてきたのである。
したがって古くは地理と歴史こそ最新の科学であったと容易に推測がつく。
然るに、現在の我が国ではどうか? 地理と歴史を畏怖すべき科学としてではなく、安易に一つの受験科目ぐらいにしか見てはいないか? それもあまり重要視してない科目として。
ここに筆者は我が国が陥った理系偏重教育の大きな弊害を見るのである。
よくよく思い出してみると、我々は子どもの頃に自分の育つ地理的環境、すなわち家や周辺の道路や建物、四季折々の行事や生活の知恵などを親や地域の先達から教わりながら、次第に自力で生きていく術を獲得して成人したはずである。
地理と歴史こそ生きていくための必要不可欠の知見であった。しかしいつの頃からか我が国では地理と歴史の学問や知見としての地位は極端に低くなってしまった感がある。
何故であろうか? いろいろ理由はあろうが筆者は我が国の行き過ぎた理系偏重教育のスタンスと理系学生であることを高いステイタスとする風潮の蔓延と見ている。
もう一つの理由は、高度に進んだ分業体制のおかげで地理と歴史分野については、他人から情報を取りやすくなって自力で獲得しなければならない必須の知恵と認識されなくなったということもあろう。
その結果、我が国は他国との交渉や経済活動において著しく不利益を被る場面に遭遇し、立ち往生することが多くなっていると思われる。中国韓国との軋轢はもとより、オリンピック競技をめぐる駆け引き、世界遺産登録に関する卑屈な態度などなど数え上げれば枚挙にいとまがない。
筆者がWake! 櫻木事務所を立ち上げて地理と歴史を中心とした人材育成を志すのは、このような事情に他ならない。そのあたりの事情は追ってまた述べさせていただく。
今回はこの辺で。 次回また 地理と歴史を考える、その2で。
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